月刊『音盤』

不定期月刊として、レコード関連の記事を投稿します。

十一月號 『明日待子の録音盤』

 またもや八月・九月・十月と記事を怠けてしまい、投稿は十一月になってしまいました。

この記事を書いている本日は十月二日でありまして、漸く朝夕と涼しき空気を感じることができるようになりました。こんな季節にはspレコードを探しに骨董市へと行きたくなる気分であります。とはいえ最近の骨董市ではspレコードが枯渇しておりまして、軍装品や戦前の資料を買い漁っている筆者でござい・・・。近頃では主に大東亜戦争中のレコードは数が著しく減っているのではないでしょうか。

そんなことはさておき、十一月は明日待子の録音盤について記したく思います。

 

 明日待子がポリドールで「上海の街角で」  「島の船唄」  「黄昏道中」  「蛇の目のかげで」に台詞を入れて発売していることは、筆者がネットに散々書いることもあってご存知の方も多いことしょう。明日待子が昭和十年代にムーランルージュ新宿座の大スターであり、元祖アヰドルと言われてることはあまりにも有名である。そんな若き日の明日待子が録音をしたレコードは3枚発売されているのだ。それが上記のポリドール盤と、昭和十五年にキングレコードより「楽しき明日(レコード番号47027)」を発売している。明日待子の録音盤は全て昭和十五年であり、最初はポリドール六月新譜の「上海の街角で/島の船唄」であった。なぜ昭和十五年に集中しているのかは不明であるが、支那事変の戦況が些か良くなり戦前では最後となる束の間の平和な時間が訪れたからではないかと推測している。そんな束の間の平和な時期というのが昭和十三年〜十五年頃であった。この時期の歌には戦争を感じさせないような青春歌謡などの明るく軽快な歌が多く作られた頃でもあった。その最中の昭和十五年に明日待子が歌謡物語としてレコード吹き込みをして発売していたのではないだろうか。いや、発売可能な時期であったのだ。

 明日待子のレコードはポリドール月報を見ると田端義夫の「別れ船」と並んで大々的に宣伝がされているのだが、現存するレコード盤は非常に少ないのにはどんな訳があるのだろうか。そう考えた時に二つの理由が浮かぶ。まず、第二次欧州大戦が始まった頃からポリドールレコードの材質が非常に悪くなり、現在に至るまでに割れて消えてしまったこと。もう一つは、明日待子を知る人(ファン)が帝都周辺に集中していた可能性がある。現在のようにテレビがない時代は、ラヂオや新聞が主な情報源であった。そんな時代に帝都で活動しているアヰドルを全国各地の人が知っているだろうか。このように考えると、レコードが発売されても買い求める人は帝都(隣県含む)在住の人にほぼ限定される。そうした場合、東京大空襲・横浜大空襲の大きな空襲のほかに数多くの空襲を受け焼け野原になっている帝都周辺では、戦災によって消えてしまったことがレコード現存数に大きく影響しているのではないだろうか。このようなこともあり、現在では両手に収まるほどの枚数しか現存していないように思える。筆者が「上海の街角で/島の船唄」のレコードを入手したのも、都心にありながら戦災を逃れた質屋の蔵に眠っていたレコードの中に入っていた一枚であった。空襲と現存数の関係性については筆者の私論に過ぎないのだが、帝都周辺でしか売れなかった(売られなかった)可能性については、研究家の方も申しておられることからほぼ間違えないことゝ思う。

 そんな明日待子のレコードについて内容が気になる人が多いことでしょう。筆者は明日待子のレコードだと「上海の街角で/島の船唄」のポリドール盤しか所有していないため、このレコードの内容ついて記したく思う。このレコードは写真盤で発売されており、もう一方の「黄昏道中/蛇の目のかげで」は赤盤での発売である。どちらとも歌謡物語として、ヒット曲の間奏部分などに台詞を入れている。彼の有名な「上海の街角で」のオリヂナル盤では佐野周二が時局的な台詞を入れているが、明日待子の台詞ではこれに返答するような台詞である。別れの船出を見送る恋人(元恋人?)に対して、見送られる側の女性の立場で台詞を入れているのだ。その台詞にオリヂナル盤のような時局的な言葉はなく、聴いていると昭和初期に制作された恋愛映画の台詞のようである。片面の「島の船唄」では、幼い日々を過ごした島に住んでいる人を恋しく想う乙女の心中を台詞にしている。

 両面とも大変に良い構成となっているが、残念なことが一つある。それは、ポリドールが行なっていた質の悪いダビングである。明日待子の台詞以外は東海林太郎田端義夫 本人をスタヂオに呼んで同時録音しているのではなく、蓄音機でレコードをかけてその音をスタヂオに流して録音している。そのため、スタヂオの中で変な響きを生んで、さらに音量も落ち回転数も若干狂っている。戦前の日本に於いては、録音技術としての主力は同時録音以外に考えられなかった。戦後になり、テープ録音が普及するまでは途中で他の音源を繋ぎ合わせるなど行えなかった訳だ。しかし、他社では蓄音機でレコードをかけた音を使用したと感じないほどのダビング盤もある。コロムビアレコードの白い宣伝盤も同じ原理でダビングをして、最後にアナウンサーが説明をしている。だが、発売盤とさほど変わらないような録音である。菊池章子の「噯 噯 噯」について、発売用プレスを入手して検証した結果として、宣伝盤(白盤)の回転数(分)が約85回転程度であった。誤差として5回転というのは2枚を聴き比べないとわからない程度である。それに比べてポリドールでは、あからさまに回転数が速いか遅いかであり、聴いていて違和感を感じるものが多い。そしてポリドールでは、スタヂオ内の異様な響きも重なり残念な出来となってしまったのだ。明日待子が台詞を入れた歌謡物語の録音が不評だったのか、昭和十六年に森赫子が田端義夫の「上陸の夜」に台詞を入れている歌謡物語では、田端をスタヂオに呼んで森が台詞を入れる方法で吹き込みを行なった。そのため、何ら違和感なく聴くことができる。ただし、森赫子の「旅のつばくろ」「人生航海」は明日待子の録音と同じ方法のため違和感がある。

 録音の違和感などについてはまた何かの機会に書くとして・・・、明日待子の録音盤とはこのようなものである。明日待子のレコードはもちろん未復刻となっているため、いずれは音源を世に出せれば良いと考えている。

 

 

 

戦前流行歌研究家   高松 敏典

七月號 『謎なる紀多寛』

当ブログでは、一ヶ月に一稿を書こうと思っておりましたが、まとまった文章を書く時間を取れずに十ヶ月と余日が過ぎてしまいました。本月は紀多寛がタイヘイレコード時代に残した幻の流行歌について記そうと思います。謎大き歌手が残したレコードとは・・・。

 

 

紀多寛(北廉太郎)が残した歌の全貌を解明した者はいないだろう。いや、おそらく全てを解明することはできない謎なのだ。ポリドール時代の発売曲に関しては全て判明しているが、タイヘイやマイナーレーベル録音については6割が判明していれば良い方だと思える。

テレフンケンやニットーにも録音があるという噂も多く、有名どころを解説をしておくと、テレフンケンで『もしも債券あたったら』を発売している大北寛が紀多寛の変名であるという人もいる。しかし、この大北寛は筆者からすると紀多寛ではないという結論に至る。細かく分析してみると、紀多寛の歌声とは違う点がいくつかあるのだ。大北寛は『もしも債券あたったら』の他にも同社で『流転道中』を発売しているが、どれを聴いても紀多寛であるという決定的な合致点が見つからない。大北寛に関しては検証が不十分なため、まだ紀多寛でないとは言い切れない。

紀多寛のマイナーレーベルについてはさておき、タイヘイレコードの方では幻の一曲が発見されたわけだ。それが、なら丸と共演している『晴れの門出』という流行歌である。この曲名を発売目録や月報で目にしたことがなく、レコードを手にするまでは知り得ない歌であった。しかし、音盤を入手した上で改めて調べ直すと、昭和十二年十月に臨時発売として月報記載があることを知ったのだ。まあ、筆者の調査不足は差し置かせていただいて、とにかくレコードが現存していること自体が奇跡のような一枚だと考える。

歌の内容としては自局流行歌と称されているように、内地の妻と出征する兵士の様子が描かれている。演奏は和調の軽快な旋律である。裏面は、なら丸の『若しも男に生れたら』であり、大ヒット曲の『若しも月給が上つたら』を感じさせる旋律でなんとも言えない出来と言える。

同年の七月に支那事変が勃発して以来、流行歌にも戦争の影が迫っていた。そんな時期に歌手として活動を始めた紀多寛(北廉太郎)であったが、甘く柔らかい歌声は戦時流行歌からも感じられるものだ。

 

紀多寛のタイヘイ時代の録音はある程度の数があるのだが、見つかっていない幻みたいな歌も多い。それ故なのだろうか、ポリドールの北廉太郎は復刻が多方面で復刻されているが、タイヘイの紀多寛は数曲しか復刻が行われていない。いつの日にかタイヘイ時代のCD復刻も実現できたらと考えている。

 

昭和十二年十月臨発『晴れの門出』

松村又一  作詞 山下五郎  作曲 草笛道夫  編曲

紀多寛・なら丸 番号:21321-A

 

 

戦前流行歌研究家 高松 敏典

二月號 『結城道子の九十四年』

結城道子(本名 由利文子)1908(明治41)613日に群馬県前橋市の生まれ。

東京高等音楽学(:国立音楽大学)を卒業すると声楽では奥田良三に、ピアノでは太田恒子に師事していた。

昭和8年の9月にポリドール新譜「白帆は去りて」で歌手デビューをする。ポリドールでは1曲を発売しただけで同年の10月頃にニットーレコードへと移籍したのである。ニットーでは翌11月に結城道子の名義で「涙の星影」を発売した。これがニットーでは初の発売とされている。この次に発売した「うしろ影」では本名の由利文子の名で発売している。その後、ニットーでは「柳散る頃」「朝鮮めくら」「スキーおけさ」「日の本の少女」などを発売しており、全て由利文子の名である。昭和101月の「雪を散らして」がニットーでは最後の発売と考えられる。

昭和10年の終わり頃にポリドールに戻り、昭和111月に「乙女星」を発売した。これがポリドールに戻って初の発売となっている。昭和101月にニットーでの最後の発売をしてからポリドールに戻るまでの10カ月間の動向に関しては不明である。「乙女星」の後は「恋の巡礼者」「乙女の哀愁」「私と月だけ」「流れ雲」「曠野の月」などを昭和11年の間に発売しているがヒットした歌はなかった。昭和12年になると、前年にデビューした上原敏との共演で「恋幕新調」を発売している。この歌はヒット曲が少なかった二人を売り出すために企画されたものと言われているがヒットとはならなかった。その後も「雨の桟橋」「女いとしや」「いつもの街角」などを発売するもヒットとはならなかったのである。そして7月になると再び上原敏との共演で「傷める花束」を発売する。上原敏は4月に「妻恋道中」で大ヒットを出しており有名になりつゝあった時期だが、この頃はまだ結城道子の知名度は低かったと言える。これもまたヒットとはならずに終わった。そして翌月に又も上原敏との共演で「裏町人生」を発売し、こちらは大ヒットとなった。元々は結城道子のために用意されていた歌だが、何らかの理由で上原敏と二人で吹き込む事になったのである。発売が支那事変の後であり、時局的に歌詞の問題が指摘されて一度は発売禁止となった歌でもある。しかし、あまりにも人気のため発売禁止が取り下げられたのであった。この「裏町人生」をきっかけに結城道子の知名度は上がる事となった。昭和13年になると東海林太郎の片面が結城道子という組み合わせが多くなり、それ故なのか少しずつヒット曲が増えていった。この頃の発売だと「 X 二十七號」「嘆きの小鳩」「通州の丘」などがある。「通州の丘」に関しては発売禁止とされてしまった。発売禁止になった理由としては昭和127月に起こった通州事件を日本が公にしておらず、通州の丘 というタイトルが事件と重なった事だと思われる。

ちょうどこの頃、昭和12年の11月にコロナレコードの解散と共にポリドールに移籍してきた青葉笙子が「鴛鴦道中」「関の追分」「銃後だより」でヒットを出しており、青葉笙子が結城道子を上回る人気歌手となってしまった。「裏町人生」の大ヒットで徐々に人気となりつゝあった結城道子であるがここで伸び悩んでしまう。昭和134月には「鹿の子草紙」、5月には「花つみし丘」と発売しているが「裏町人生」以降は大ヒットがなかった。同年の10月に俳優 佐野周二が台詞を入れた「純情月夜」が発売され、久々のヒット曲であった。しかしこの後は「大陸哀歌」や「街の感傷」を発売するもヒットは出ずに13年が終わった。昭和14年に入ると前年にデビューした北廉太郎との組み合わせで「想ひ出峠」を1月に発売している。以降、昭和15年の春までに「蒙古吹雪」「女性行路」「おもひで日記」「心のふるさと」「支那の一夜」などを発売するも全くヒットが出なかったのであった。

この時期になると青葉笙子、上原敏、東海林太郎らと慰問のために満州を何度か訪れている。青葉笙子と上原敏は「二人の大地」を歌い、東海林太郎は「国境の町」を慰問でよく歌ったという。しかし結城道子は合唱で「愛国行進曲」や「ほんとにほんとに御苦労ね」を山中みゆき の代わりに歌うばかりで、自分の歌を披露する事は少なかったとポリドール文芸部の妻城 氏は後に語っている。

昭和15年の4月新譜よりポリドールではレコード番号がP−5000番と改められた。しかし4 5月と結城道子は新譜を出していなく、番号が改定されて最初の発売は6月新譜の「雨の日曜日」である。片面は大ヒット曲の田端義夫「別れ船」となっている。このレコードは発売当初はあまり売れず、昭和16年以降の再プレスで売れたレコードと言える。現存するレコードを見ると、マトリックス番号の横に Made in Japan と刻印されているレコードが非常に多い。昭和165月あたりからポリドールこの刻印をするようになり、この刻印の入ったレコードが多いという事は再プレスで多く売れたという事がわかる。この次に7月新譜で「上海スーヴェニール」を発売しているが、片面の近江志郎「想ひ出の並木路」と共に全くヒットはしなかった。この歌を最後に8ヶ月程は新譜を全く出しておらず、8ヶ月もの間に何をしていたのかは不明である。155月にデビューした新人の高山美枝子が「支那ランターン」「銀河の宵」で人気を出していた時期と結城道子が新譜を出さなくなった時期が重なるため、人気が劣っていた結城道子は一時的に休みを取ったと考えられる。新譜を再開したのは昭和163月新譜の「荒城の月」からである。この3月というのは青葉笙子が「佐渡の故郷」を最後に引退した月であり、青葉笙子と入れ替えで復帰した事になる。復帰はしたものゝ、この次の新譜は同年11月の「想ひ出の小窓」であり、またしても8ヶ月程は新譜を出していないことになる。翌月には舞踊小唄の「夕ぎり」と「三国同盟の歌」「産報青年隊歌」を数人との共演で発売している。昭和17年最初の新譜は3月の「シンガポールに凱歌があがる」であり、これが結城道子にとって最後の発売となった。昭和173月で歌手を引退した事になる。これ以降の結城道子に関しては長年不明であったが、今回の記事にはこの先を記す事ができる。

結城道子がポリドールレコード改めの大東亜レコードで一曲も新譜していないのは、この移行時期に何らかの理由で亡くなったからではないかと高木康 氏は自身の著書に記していた。他の戦前流行歌史を研究していた方々も「空襲で亡くなったんのしょう」などと言っているだけであった。1960年代から戦前のレコードを集め調べていた方々であっても結城道子の歌手引退後を知らないほど資料がなかったのであろう。筆者もそういう方々の話を聞いて終戦前後になくなったのではないかと考えていた。しかし去年の夏頃であっただろうか、結城道子の親族の方から色々とご情報を頂くことができた。その方のお話を引退後を中心に記していく。

 

ます、同じポリドール専属歌手の上原敏に関しては「とても紳士で素敵だった」と言っていたとの事で、昭和173月頃に歌手を引退した理由としては「戦争の歌ばっかり歌わされてもう嫌になっちゃって歌うの辞めた」と結城道子 本人が語っていたという。この理由を聞けば昭和17年の春に歌手を引退した事に納得ができる。この時期は前年の12月には大東亜戦争が開戦し、流行歌も戦時歌謡中心へと移り変わった時期である。戦後はピアノ教室の先生をしていたという。太田恒子に師事していた事もあり、ピアノも得意としていたのだろう。

平成十四年七月三日に享年九十四歳で亡くなり、戒名は「釋尼文謡信女」である。都内某所の墓所があり、墓石には「純情月夜」の歌詞が彫られている。結城道子が大切にしていた歌だという事がわかる。

ニットー時代  由利文子「日の本の少女」

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ポリドール新譜  結城道子「流れ雲」の歌詞カード

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ポリドール新譜  「女いとしや」の歌詞カード

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顔写真入りオリジナル紙袋と「花つみし丘」のレコード

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ポリドール新譜  台詞:佐野周二「純情月夜」

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ポリドール新譜  「雨の日曜日」

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大東亜レコード時代の再プレス

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ポリドール新譜  「産報青年隊歌」

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「純情月夜」の歌詞が刻まれた墓石

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後書きにて

この記事を書けたのは多くの方のご尽力によるものです。今まで戦後の消息が不明であった結城道子に関して少しでも多くの方にお読みいただき知って頂ければ幸いな事と存じます。なお、本文章では敬称を省略させて頂いております。

 

 

参考資料

なつメロ愛好会 関連記事

青葉笙子 著書「歌の回想録」

福田俊二・加藤正義 著書「昭和流行歌総覧」

 

 

 

 

 

高松 敏典 

 

 

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Twitterで主に投稿しております、【大正浪漫 私の生活】の筆者 高松敏典です。

この度、月刊「音盤」として はてなブログ にて活動させて頂きます。こちらでは私的研究をまとめた記事や、月に一回は寄稿していただいた文章の掲載とレコード話の記事を月刊として投稿していこうと思います。本来は電子書籍で月刊を発行したいところですが、どれほどの方に読んで頂けるか分からないので、とりあえずはこのブログへの投稿と致します。好評でありましたら電子書籍等も考えたく思います。

今後ともどうぞ宜しくお願いします。