月刊『音盤』

不定期月刊として、レコード関連の記事を投稿します。

二月號 『結城道子の九十四年』

結城道子(本名 由利文子)1908(明治41)613日に群馬県前橋市の生まれ。

東京高等音楽学(:国立音楽大学)を卒業すると声楽では奥田良三に、ピアノでは太田恒子に師事していた。

昭和8年の9月にポリドール新譜「白帆は去りて」で歌手デビューをする。ポリドールでは1曲を発売しただけで同年の10月頃にニットーレコードへと移籍したのである。ニットーでは翌11月に結城道子の名義で「涙の星影」を発売した。これがニットーでは初の発売とされている。この次に発売した「うしろ影」では本名の由利文子の名で発売している。その後、ニットーでは「柳散る頃」「朝鮮めくら」「スキーおけさ」「日の本の少女」などを発売しており、全て由利文子の名である。昭和101月の「雪を散らして」がニットーでは最後の発売と考えられる。

昭和10年の終わり頃にポリドールに戻り、昭和111月に「乙女星」を発売した。これがポリドールに戻って初の発売となっている。昭和101月にニットーでの最後の発売をしてからポリドールに戻るまでの10カ月間の動向に関しては不明である。「乙女星」の後は「恋の巡礼者」「乙女の哀愁」「私と月だけ」「流れ雲」「曠野の月」などを昭和11年の間に発売しているがヒットした歌はなかった。昭和12年になると、前年にデビューした上原敏との共演で「恋幕新調」を発売している。この歌はヒット曲が少なかった二人を売り出すために企画されたものと言われているがヒットとはならなかった。その後も「雨の桟橋」「女いとしや」「いつもの街角」などを発売するもヒットとはならなかったのである。そして7月になると再び上原敏との共演で「傷める花束」を発売する。上原敏は4月に「妻恋道中」で大ヒットを出しており有名になりつゝあった時期だが、この頃はまだ結城道子の知名度は低かったと言える。これもまたヒットとはならずに終わった。そして翌月に又も上原敏との共演で「裏町人生」を発売し、こちらは大ヒットとなった。元々は結城道子のために用意されていた歌だが、何らかの理由で上原敏と二人で吹き込む事になったのである。発売が支那事変の後であり、時局的に歌詞の問題が指摘されて一度は発売禁止となった歌でもある。しかし、あまりにも人気のため発売禁止が取り下げられたのであった。この「裏町人生」をきっかけに結城道子の知名度は上がる事となった。昭和13年になると東海林太郎の片面が結城道子という組み合わせが多くなり、それ故なのか少しずつヒット曲が増えていった。この頃の発売だと「 X 二十七號」「嘆きの小鳩」「通州の丘」などがある。「通州の丘」に関しては発売禁止とされてしまった。発売禁止になった理由としては昭和127月に起こった通州事件を日本が公にしておらず、通州の丘 というタイトルが事件と重なった事だと思われる。

ちょうどこの頃、昭和12年の11月にコロナレコードの解散と共にポリドールに移籍してきた青葉笙子が「鴛鴦道中」「関の追分」「銃後だより」でヒットを出しており、青葉笙子が結城道子を上回る人気歌手となってしまった。「裏町人生」の大ヒットで徐々に人気となりつゝあった結城道子であるがここで伸び悩んでしまう。昭和134月には「鹿の子草紙」、5月には「花つみし丘」と発売しているが「裏町人生」以降は大ヒットがなかった。同年の10月に俳優 佐野周二が台詞を入れた「純情月夜」が発売され、久々のヒット曲であった。しかしこの後は「大陸哀歌」や「街の感傷」を発売するもヒットは出ずに13年が終わった。昭和14年に入ると前年にデビューした北廉太郎との組み合わせで「想ひ出峠」を1月に発売している。以降、昭和15年の春までに「蒙古吹雪」「女性行路」「おもひで日記」「心のふるさと」「支那の一夜」などを発売するも全くヒットが出なかったのであった。

この時期になると青葉笙子、上原敏、東海林太郎らと慰問のために満州を何度か訪れている。青葉笙子と上原敏は「二人の大地」を歌い、東海林太郎は「国境の町」を慰問でよく歌ったという。しかし結城道子は合唱で「愛国行進曲」や「ほんとにほんとに御苦労ね」を山中みゆき の代わりに歌うばかりで、自分の歌を披露する事は少なかったとポリドール文芸部の妻城 氏は後に語っている。

昭和15年の4月新譜よりポリドールではレコード番号がP−5000番と改められた。しかし4 5月と結城道子は新譜を出していなく、番号が改定されて最初の発売は6月新譜の「雨の日曜日」である。片面は大ヒット曲の田端義夫「別れ船」となっている。このレコードは発売当初はあまり売れず、昭和16年以降の再プレスで売れたレコードと言える。現存するレコードを見ると、マトリックス番号の横に Made in Japan と刻印されているレコードが非常に多い。昭和165月あたりからポリドールこの刻印をするようになり、この刻印の入ったレコードが多いという事は再プレスで多く売れたという事がわかる。この次に7月新譜で「上海スーヴェニール」を発売しているが、片面の近江志郎「想ひ出の並木路」と共に全くヒットはしなかった。この歌を最後に8ヶ月程は新譜を全く出しておらず、8ヶ月もの間に何をしていたのかは不明である。155月にデビューした新人の高山美枝子が「支那ランターン」「銀河の宵」で人気を出していた時期と結城道子が新譜を出さなくなった時期が重なるため、人気が劣っていた結城道子は一時的に休みを取ったと考えられる。新譜を再開したのは昭和163月新譜の「荒城の月」からである。この3月というのは青葉笙子が「佐渡の故郷」を最後に引退した月であり、青葉笙子と入れ替えで復帰した事になる。復帰はしたものゝ、この次の新譜は同年11月の「想ひ出の小窓」であり、またしても8ヶ月程は新譜を出していないことになる。翌月には舞踊小唄の「夕ぎり」と「三国同盟の歌」「産報青年隊歌」を数人との共演で発売している。昭和17年最初の新譜は3月の「シンガポールに凱歌があがる」であり、これが結城道子にとって最後の発売となった。昭和173月で歌手を引退した事になる。これ以降の結城道子に関しては長年不明であったが、今回の記事にはこの先を記す事ができる。

結城道子がポリドールレコード改めの大東亜レコードで一曲も新譜していないのは、この移行時期に何らかの理由で亡くなったからではないかと高木康 氏は自身の著書に記していた。他の戦前流行歌史を研究していた方々も「空襲で亡くなったんのしょう」などと言っているだけであった。1960年代から戦前のレコードを集め調べていた方々であっても結城道子の歌手引退後を知らないほど資料がなかったのであろう。筆者もそういう方々の話を聞いて終戦前後になくなったのではないかと考えていた。しかし去年の夏頃であっただろうか、結城道子の親族の方から色々とご情報を頂くことができた。その方のお話を引退後を中心に記していく。

 

ます、同じポリドール専属歌手の上原敏に関しては「とても紳士で素敵だった」と言っていたとの事で、昭和173月頃に歌手を引退した理由としては「戦争の歌ばっかり歌わされてもう嫌になっちゃって歌うの辞めた」と結城道子 本人が語っていたという。この理由を聞けば昭和17年の春に歌手を引退した事に納得ができる。この時期は前年の12月には大東亜戦争が開戦し、流行歌も戦時歌謡中心へと移り変わった時期である。戦後はピアノ教室の先生をしていたという。太田恒子に師事していた事もあり、ピアノも得意としていたのだろう。

平成十四年七月三日に享年九十四歳で亡くなり、戒名は「釋尼文謡信女」である。都内某所の墓所があり、墓石には「純情月夜」の歌詞が彫られている。結城道子が大切にしていた歌だという事がわかる。

ニットー時代  由利文子「日の本の少女」

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ポリドール新譜  結城道子「流れ雲」の歌詞カード

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ポリドール新譜  「女いとしや」の歌詞カード

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顔写真入りオリジナル紙袋と「花つみし丘」のレコード

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ポリドール新譜  台詞:佐野周二「純情月夜」

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ポリドール新譜  「雨の日曜日」

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大東亜レコード時代の再プレス

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ポリドール新譜  「産報青年隊歌」

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「純情月夜」の歌詞が刻まれた墓石

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後書きにて

この記事を書けたのは多くの方のご尽力によるものです。今まで戦後の消息が不明であった結城道子に関して少しでも多くの方にお読みいただき知って頂ければ幸いな事と存じます。なお、本文章では敬称を省略させて頂いております。

 

 

参考資料

なつメロ愛好会 関連記事

青葉笙子 著書「歌の回想録」

福田俊二・加藤正義 著書「昭和流行歌総覧」

 

 

 

 

 

高松 敏典 

 

 

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