月刊『音盤』

月刊として月に一回、寄稿していただいた文章やレコード関連の記事を制作し投稿します。

八月號 歌と戦争 〜大東亜戦争で犠牲となった歌手〜

本ページは毎月一記事を投稿しようと考えて立ち上げましたが、2月に結城道子の記事を書いて以来パスワードを失念してしまいログインが出来なく投稿が止まっておりました。先月、再設定をして今月より再開とさせて頂きます。

さて、今年は大東亜戦争終結後77年目に年となりました。筆者の先祖にも出征し武漢作戦に参加した人、中支の大陸打通作戦(前期: 京漢作戦・後期:湘桂作戦)に参加して戦死した人、満洲・北支そしてジャバ島で戦った人など大東亜戦争に関わった人は少なくありません。戦争など絶対にあってはなりません。しかし、過去の戦争を忘れる事も事実を隠す事もしてはならないと考えます。
筆者の研究対象としているレコード会社がポリドールレコードのため、ポリドールレコード中心としての記事となりますが、今年は歌と戦争について少しばかり記そうと思います。戦争により死去した歌手、上原敏・高山美枝子・浅草染千代についての事を主として、あまり知られていない黄河堤防決壊事件や上海租界と歌を題材とします。文章中には不適切な表現や現代で一般に知られている事実と異なる箇所も御座いますがご了承下さい。著者は現在の「太平洋戦争」という呼び名に違和感があるため当時の呼び方である「大東亜戦争」と書かせて頂きます。

 

著者の曾祖父(配属:輜重兵)が昭和13年頃に満州で撮影した一枚 

黄河堤防決壊事件

黄河堤防決壊事件は1938年6月に中華民国の国民革命軍が日本軍の前進を阻止する目的で起こした作戦であった。黄河を氾濫させ河南省安徽省江蘇省の3省に被害を出し、農地は破壊され水死者は100万人、被害者は600万人と推定されている。事件当時は黄河決潰事件と記載されており、中国語では花園口決堤事件と書かれる。しかし、結果として日本軍には犠牲者・被害共に殆ど出なかった。この事件をモデルに作られたのが昭和13年10月新譜の上原敏「嵐の黄河」である。内容としては黄河の歴史とその良さを紹介しつゝ、黄河堤防決壊事件の被害が凄く大きいものであり蒋介石がどれ程に非道で残虐であるかを歌で表現している。内地へと事件の重大さを伝える目的も込めて制作されたとも考えられるが、レコードは全く売れずその役目は果たす事は出来なかった。黄河堤防決壊事件を題材とした歌は「嵐の黄河」以外は調べられた範囲では確認できず、日本がこの事件の詳細を公開しなかった事もありレコード化を躊躇った可能性がある。

 

上海租界(外国人居留地)

上海租界は1842年の南京条約によって開港した上海に置かれた租界(居留地)であり、歌のモデルともなり戦前期に於ける日本映画にも登場している。当初はイギリス・アメリカ・フランスが租界を置いており、その後にアメリカ・イギリスと日本の租界をまとめた共同租界と、フランス租界に区分が改められた。上海は租界を有したことによって世界への窓口ともなり、凡ゆるモダンなものが溢れる街となった。誰でも気軽にハリウッド映画・ジャズなどのアメリカ文化やカフェなどのフランス文化などに触れる事ができ、演劇や映画そして『上海画報』といったグラフ雑誌をはじめとする様々なメディアの出版等も盛んになった。女性は流行を追求して新式の旗袍(いわゆるチャイナドレス)も流行した。日本映画では「支那の夜」の中で多く上海租界が写されている。
曲名として居留地という言葉が使用されている歌で最も古いのは昭和12年9月テイチク新譜の天野喜代子「居留地の娘」と思われる。この頃の歌をじっくり聴いていると上海租界を表す歌詞が多く存在しているが、曲名で租界(居留地)を使用している歌は皆無に等しい。昭和15年になると上原敏・波良通子の「居留地の灯」や高山美枝子「居留地の娘」が作られたが、それでも居留地という言葉が曲名になったのは2曲だけであり、租界(居留地)に良い印象を持つ人が少なかったのであろうか。異郷の空に咲く兄妹の純愛が惻々と聴く人の胸を打つ美しい抒情歌謡である「居留地の灯」はヒットとはならなかったが大変良い仕上がりである。
上海租界のより規模は小さいが広東の沙面租界が登場する歌もあり、その一つが昭和15年9月ポリドール新譜の小林千代子「広東ルムバ」である。暮れる広東の街で一人淋しく夜更けまで踊る女性の心情をルムバ調の旋律に乗せてしみじみと小林千代子が歌い上げた美しい大陸歌謡となっている。1番の歌詞に(胡弓なつかし 租界のあたり)という歌詞があるが、この租界というのが珠江の入り江の沙面島に存在した沙面租界の事である。

昭和12年頃の上海租界 映画「支那の夜」の冒頭シーンに登場する時計台が写っている

英語のネオンサインが多く見える居留街を進む上海特別陸戦隊

昭和15年9月新譜 小林千代子「廣東ルムバ」

 

上原敏

上原敏(本名:松本力治)は明治41年8月26日北秋田郡大館町の商家〔ネリヤ〕の次男として生まれる。小学校時代から音楽が好きで学芸会ではいつも代表で歌っており、大館中学時代にはバイオリンに没頭し歌唱よりもその才能を買う人が多かったという。スポーツにも才能を示し4年生(旧制中学校)の時には伝統ある野球部にスカウトされ外野手として公式戦出場を果たしている。中学校(旧制)卒業後1年間の浪人を経て昭和4年 専修大学に入学すると、大学でも野球部に入部し外野手として活躍していた。大学卒業後の昭和9年 整腸薬で成長を続けていた「わかもと製薬」に入社し宣伝部の傍で会社の野球部にも籍を置いていた。この頃、遠縁の親戚である秩父重則が上原の歌の素質に目をつけ作詞家 藤田まさとに紹介すると、藤田よりレコード吹き込みを勧められたという。ポリドールは東海林太郎や喜代三といったスターを抱えていたが、新人を発掘することに力を入れていた時期でもあり「須坂小唄」や「望郷の唄」など数曲をテスト録音をして、昭和11年に喜代三と共演「月見踊り」でデビューした。サラリーマンから歌手へ転身という華やかなスタートであった。上原敏という名前は訳詞集「海潮音」の作者 上田敏と俳優 上原謙を模したものである。
デビュー当初から「筏しぶき」「恋慕月夜」といった良い歌を多く録音していた事から社内でも期待されていたように思えるが、なかなか大ヒット曲は出せていなかった。しかし転機は急に訪れ、昭和12年4月新譜の「妻恋道中」が25万枚以上を売り上げる大ヒットとなったのである。それを祝うかのように翌5月 秩父重剛の夫人の妹で北海道出身の桜田澄子さんと結婚している。「妻恋道中」は日活により映画化もされ、ポリドールの喜代三も出演して昭和12年5月27日に封切られた。この後の上原敏は快調で7月には「流転」、8月には「裏町人生」も大ヒットとなった。

青葉笙子との出会い

昭和12年夏にコロナレコードの解散に伴いポリドールへと移籍してきた青葉笙子との出会いが上原敏のその後を変える事となる。上原敏と青葉笙子は昭和13年1月新譜の「鴛鴦道中」で初共演し、これが大ヒットとなると上原・青葉は鴛鴦コンビとしても有名となった。その後も「二人の大地」「桜ばやし」「鴛鴦春姿」「亜細亜の若人」「第二の故郷」などで共演し、名コンビとして青葉笙子が昭和16年に引退するまで一緒に歌い続けた。昭和13年になると戦線が大陸全土へと拡大した事に伴い上原敏・青葉笙子・山中みゆき らで慰問団が結成され、同年3月に初めての戦地慰問をする事になった。以後、上原敏は昭和17年までに戦地慰問を合計で7回している。

上原敏と歌声

「妻恋道中」「流転」「裏町人生」の大ヒットのより歌手としての地位を確立させた上原は、昭和18年の出征するまで数多くの大ヒットと放ち大スターとなった。上原敏の歌声は柔らかく滑らかで美しいもので、どのジャンルを歌わせても聴き心地の良い歌ばかりである。それゆえに、「戦線唱歌」「大別山系攻撃」「楊州空爆行」などの戦時歌謡もなんだか流行歌のように聴こえてしまう。

昭和15年頃になると頻繁に演奏旅行・大陸慰問を行い、多忙のあまりに体調を崩し徐々にデビュー当時の柔らかい声は失われつゝあった。多くの文献で(「仏印だより」頃から声が悪くなった)と記載されているが、筆者としては昭和15年4月新譜「希望の彼方」の頃より声の変化を強く感じる。満蒙の広大な大地を歌った「曠原に咲く花」もこの年に発表され、不思議なメロディと上原敏の力強い歌唱はとても聴き応えのある一曲だが声に滑らかさがないのがとても残念である。また、昭和16年8月新譜の「月の木曽路」からは身の疲れを強く感じ取れる。戦時下に生きる歌手の過酷さを知れる一曲と言えるだろう。

出征と戦死

戦況が悪化し、昭和18年4月始めに上原にも召集令状が届き、出征することになる。召集令が届いた日は東京の映画館のステージに立っており、会場の観衆に召集令状が届いた事を知らせると最後の歌を歌い上げた。4月10日 上原敏は本名の松本力治として秋田歩兵第一一七部隊補充隊に入営し、この日は大館駅前で澄子夫人と子供らの見送りを受けたという。

上原敏が最後に発売した歌は昭和18年10月新譜の「北洋の護り」だが、上原の出征が4月である事から録音は昭和18年3月か4月上旬に行われ、内地でレコードが発売された頃には南方で必死に戦っていた事と考えると複雑な感情にさせられる一曲である。
上原の所属する部隊はマニラ・セブ島ラバウルと移動を重ねて昭和18年の冬にはニューギニア本当へと上陸し飛行場のあるウエワクまで行軍した。昭和19年4月13日には基地をウエワクからホーランジアへと移すために転身するが、4月22日に目的地であったホーランジアとウエワク近くのアイタベに上陸した米豪連合軍の攻撃を受け、上原敏を含む部隊はジャングルへと敗走するとそのまま還る事はなかった。食料もない厳しい状況であった事を考えると4月の終わりから5月の始めには死去していたと思われる。
戦後の昭和22年、澄子夫人の元に一通の広報が届き『第一揚陸部隊 暁二九四六部隊補充兵兵長 松本力治はニューギニア ホーランジア付近で病死と認定せられたので告知します』と記されていたという。戦死広報による命日は昭和19年7月29日 享年36歳である。

 

「妻恋道中」がヒットした頃の上原敏

青葉笙子と大陸慰問の旅へ 作曲家 太田半三郎(上原の右)・文芸部 妻城光男(右)との一枚

上原敏・青葉笙子「鴛鴦道中」

昭和16年8月新譜「月の木曽路

昭和15年5月ポリドール月報 表紙 

「親恋道中」の歌詞とサイン

高山美枝子

高山美枝子(本名:高山 幸)は大正11年8月20日内藤新宿三光町(現在の新宿三丁目付近)の生まれで、麹町高等女学校を3年生の夏に中退し松竹少女歌劇団へと入団した。昭和15年に「支那ランターン」でデビューすると美しい声が評判となり大陸情緒豊かに表現した「銀河の宵」や従軍看護婦の真心を歌にした「病院船」などのヒットがある。高山美枝子という芸名は当時の鈴木幾三郎 社長による命名であった。ヒットとはならなかった歌でも、東京で生きる乙女の心と栄える都市を歌にした明るい抒情歌である「明るい東京」、高原の美しい景色の描写曲でありながらも哀愁漂う旋律がなんとも美しい「鈴蘭かほる高原」、日活多摩川映画の主題歌でありながら高山の美しい歌声に心を奪われる「別離傷心」、そして馬子唄調でありながら最高傑作とも言える「追分手綱」などと隠れた名曲を少なからず遺している。幾つかの歌を例に挙げてみたが、この他にも傑作と言える歌が多く社内で優先的に良い歌を録音させて貰っていたと考えられる。またテスト録音で末松和男と録音した「東京三部曲」があるが、原盤番号(14089)である事から昭和16年5月の録音と考えられる以外は全て不明な楽曲となっている。曲調は美しく歌詞にも当時としては現代的な言葉が多く使用されて大変良い仕上がりであった。しかし、曲調や歌詞が自局に合わないなどの理由から発売が差し控えられたのであろう。
高山美枝子が歌う戦時歌謡は「珊瑚海海戦」や「示せ皇国の底力」など数曲あり、必死に声を出して歌っている事は伝わるのだがどこか声が歌に付いていけてない様に感じ取れる。力強く高い声を要する歌向いておらず、高山は美しい抒情歌に限ると筆者は考える。

高山美枝子の慰問

高山美枝子は16年5月頃よりポリドール音楽挺身隊の一員として大陸へと出向いており、昭和17年1月23日に武漢大学に前で上原敏・染千代らと撮影した写真が現存している。

空襲と死去

昭和20年4月 自宅のあった東京 四谷で空襲に遭い、九死に一生を得たものの爆風により内臓に障害を負い母親の疎開先である長野県へ移り静養をしていたが24歳の誕生日を迎えた直後の昭和20年8月26日にこの世を去った。直接的な死因は不明であるが火傷による傷の悪化や細菌による感染症も併発していた事も考えられ、即死でなかった事などから内臓に負った障害が死因の全てではないと思われる。それは戦争末期から終戦直後の物資不足と混乱によりしっかりとした治療が受けられていなかった事も大きく影響しているだろう。

昭和15年8月新譜「銀河の宵」

昭和16年新譜「別離傷心」

浅草 染千代

浅草染千代は大正10年和歌山県出身の芸者歌手で、昭和12年10月に「銃後の妻」でポリドールより歌手デビューしている。この当時、ポリドールには喜代三、きみ栄、〆香の人気芸者歌手が3人在籍しており、その中で最年少であった染千代はデビュー当初は鈴木幾三郎 社長が頼んで〆香の部屋に置いて貰っていたという。作詞家 藤田まさと は「女友達の恋飛脚をやっていたりしたほど気のよい女で、芸者らしい可愛い娘だった」と証言している。昭和20年6月の大阪大空襲の時、窓から空を見上げた瞬間に爆弾(焼夷弾と思われる)の直撃に遭い26歳という若さで死去した。

 

昭和13年1月新譜「しぐれ旅」 レーベルに本人直筆のサインが入っている

後書きにて

今年は戦争によりこの世を去った歌手と歌の題材となった出来事について少しばかり書かせて頂きました。文章量が多く編集にて見落としている箇所や文章構成・言葉遣いに違和感のある箇所もあるかと思いますが、徐々に編集をしていこうと思います。画像に関しても追加したく思います。
本文章では敬称を省略させて頂いております。また、本文章・画像引用はお控え下さい。

 

高松 敏典 著

 

参考資料

青葉笙子 著「歌の回想録」

木村孝雄 著  復刻LPレコード解説

高木康 著 復刻LPレコード解説

2000年公開 上原敏ドキュメンタリー番組「ジャングルの鎮魂歌」

 

 

 

 

 

 

第二次世界大戦下のマレーネ・ディートリッヒの活動について

1939年 「砂塵」に出演。
この年、正式にアメリカの市民権を取得した。ヒトラーの特使がディートリッヒの元を訪れ、ベルリンへ戻るよう勧めたが彼女は断固として拒否したため、ナチス・ドイツの新聞は彼女の帰化を非難した。
1940年 「妖花」に出演。
1941年 「焔の女」「大雷雨」に出演。
1942年 「淑女の求愛」「スポイラース」「男性都市」に出演。
「男性都市」の映画の後、しばらくディートリッヒは映画出演を断るようになった。亡命者の救済活動や戦時協力資金集め、ヨーロッパ全土を巡って戦地の兵士たちを慰問することに注力。パットン将軍率いる第三軍にも属していた。
1944年 「フォロー・ザ・ボーイズ」「キスメット」に出演。
「フォロー・ザ・ボーイズ」は別名「スリー・チアーズ・フォー・ザ・ボーイズ」とも呼ばれている。ユニバーサルが、米軍慰問協会のために作ったオールスター映画である。
1945年 終戦をパリで迎える。

その後、ディートリッヒは孫のデイヴィッド・ライヴァに「これまでの人生で一番印象に残っていることはなに?」と訊ねられると、「戦争時代が懐かしい」と、戦場で出会った兵士のこと、兵士たちの前で彼女の代表曲である「リリー・マルレーン」を歌ったことを心を込めて語り始めたという。また、ディートリッヒは他のスター達とは違い、戦地への慰問を自己宣伝に使おうせず、カメラマンも同行しなかったため、彼女が戦地へ慰問している様子が映された公式のフィルムはほとんど残されていなかった。

 

1935年頃のマレーネ・ディートリッヒ

慰問先でのマレーネ・ディートリッヒ

映画「大雷雨」のスチール

映画「スポイラース」のスチール

 

山口 暎子 著

 

参考文献・引用資料

芳賀書店 責任編集 山田宏一
シネアルバム12 グレタ・ガルボ マレーネ・ディートリッヒ 世紀の伝説 きらめく不滅の妖星」
未来社 マレーネ・ディートリッヒ
「ディートリッヒ自伝」
新潮社 マリア・ライヴァ著
「ディートリッヒ下」
河出書房新社 和久本みさ子編著
「永遠のマレーネ・ディートリッヒ

 

 

著者紹介

山口 暎子 (映画史・音楽史研究者)

主には1960・1970年代の音楽と1920年代1960年代の国内・国外問わず女優について独自に調べており、1950〜1970年代のファッションや中原淳一高畠華宵などの抒情画家についても深い知識を持つ方で御座います。近頃では山口 淑子(李香蘭)の研究をすゝめております。今後の更なる躍進をご期待下さい。

 

 

 

 

 

記事作成の𫝓力・共同製作者

山口 暎子